第273回 準優勝は嬉しいか(前編)

高校野球やオリンピックを観ていていつも思うことがあるのだが、決勝までの舞台に立つと一位の選手や団体に優勝旗や金メダルがあたるだけではなく、二位や準優勝の方にも賞状や銀メダルがあたることが普通である。

人の心理としてたいては決勝まで進むとあと一つ勝って優勝したいと思うであろう。しかし結果的に負けても優勝ではないのに「準優勝」といった肩書がつき表彰される。受け取る立場からすれば、果たしてこれは嬉しいことであろうか。

二位になった選手の気持ちからすると、負けても表彰されるということである。同じ負けるにしても1回戦負けの場合とは全く違うのではあるが、ある意味初戦敗退よりも決勝戦での敗退の方がより悔しいかもしれない。

仮に何の期待もされてなく、本人的にも実力がともなってないと認める場合であれば、仮に決勝まですすめた場合にはそれだけでも奇跡であり嬉しいことかもしれない。さらにどうあがいても勝てない本命が決勝戦の相手で、初めから実力では勝てない、しかし精一杯戦って負けた場合であればよくやったと表彰されるにも納得がいくであろう。

しかしその逆の場合で、優勝を目指して頑張り続けて決勝戦でも優位に立っており最後の最後でちょっとしたミスで逆転負けといった場合には悔しくて悔しくて表彰などされたくないといった思いなのではないだろうか。

昔オリンピックのテレビを観ていて、何の競技か忘れてしまったが、準優勝した女性の選手に対してその感想を求められている場面があった。その時に「とても悔しいです」という答えが返ってきた。やはりそれがやっている選手であれば誰しもの率直な本音だろうと感じた。

ふつうならたとえ優勝を逃したとしても、全体の中の2番目なのだから世間的にみれば誇ってもいいものだが、当の本人からしてもみると一番最後で負けたのだから試合が終わった後は「二位で嬉しい」といった感情はあるわけではないというのが自分の意見である。たいていは残念だったという思いのある中、複雑な心境で二位の表彰を受けるのである。

この世間の見方(準優勝、二位はすばらしい)と選手本人の意識(負けて悔しい、優勝できなくて悔しい)の違いが自分としてはいつも気になっているのである。だから二位の表彰を止めろというのではなく、それはあり続けてもいいが、自分の感覚としては準優勝の賞状は、今は沖縄以外ではほとんど使われることのない「弐千円札」みたいなものであるといったイメージなのである。

選手自身にもよるが、もし決勝戦で負けて悔しければ準優勝の症状を自宅に飾ることはしないと思うし、仮に飾るとしてもあの時の悔しさを忘れないために「臥薪嘗胆」の意味を込めて飾っておく場合もあるであろう。

それはその人の性格にもよると思う。もし人様のご自宅にお邪魔した時に準優勝の賞状が飾られていた時には注意が必要であるかもしれない。しかしわざわざ人様に見せるように飾ってあるということはその方も準優勝ということで納得しているということだから、とりあえずは「とてもすごいですね」とお褒めの言葉をかけておいた方が無難なのではないだろうか。

しかし自分としてはたとえ準優勝であったとしても、優勝に準ずる成績をあげることは人の一生のなかではなかなかないことなので、それはおおいに表彰されるべきであると思うし二位の選手にもおおいに敬意をしめしたいと感じていることは誤解をしないでいただきたい。

なぜそのようなことを書くのかといった理由について、次回は「二位」になったことがある自分の体験談について少し触れてみたいので、それを読んでご納得いただきたい。

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