冬場のこの時期、朝起きての水道の水が冷たく、刺さるような感覚のもとで長時間、顔や手洗いをすることが苦痛である。思えば昔の人は毎朝、この冷たさのものとで掃除洗濯等をしていのだなとこの時期になるといつも思う。いまの時代は簡単に温度を調節してお湯にすることができるがひと昔はそういったものはなく、手の凍る中で作業等をし続けなければならなかったかと思うと本当に頭が下がる。
同じように学習に関しても昔は参考書等の書籍はあったが視聴するものといったらNHKの教育番組くらいしかなかったのではないか。今では無料のYouTube動画などがあり、自分の好みのチャンネルをみて気軽に学ぶことができる。昔は学校や塾の授業がメインで自分で先生を選べるといったことはほぼできなかった。
ここで言いたいことは学習環境が昔より今の方が断然よくなった、学ぶ環境が整ってとても誰でも好きな時に勉強できるといったことではない。確かに学ぶツールといった面では昔に比べて格段によくはなったが、学ぶ人の精神面に関してはどうかといったことである。
今では本を読まなくてもその内容を解説した要約チャンネルがあったり、動画を使って分かりやすく理解することはできるようにはなったものの、逆に自分の頭で深く考えるといったことはなくなってきているのではないか。昔であれば、自分で考え、自分ではどうしても理解できなかったことをそのが分かる人をみつけて尋ねる、そして理解するといった流れをとってきたと思う。また今のような検索などといった便利なものはなく、分からない用語等があれば一から調べるといった手間もかかったであろう。しかしその苦労した分、自分自身で身につけたものはとても大きく簡単に忘れはしなかったのではないだろうか?逆に今では簡単に知識等が手に入る分、分かった気になってしっかり身についていなく自分のものになってはいないではないか。
つまり苦労して身につけたものでない限りは完全に自分のものにならないということである。YouTube動画で見たり聞いたりしたものは分かった気になっても実は記憶が浅はかですぐに忘れてしまうことが多い。大量に出回っているYouTube動画も自分も一度見たものを見たことを忘れてもう一度見てしまうことが多い。いってみれば簡単で楽なものは記憶も薄い。
すなわち便利になった分、うまく使いこなせれば効率がよいが、反面情報等にあふれてしまい結局のところ分かったようで分かっていない、すなわち分かった気になっているのである。昔は学校から帰ってきたら自分でノートをまとめてみたりドリルや問題集をやって復習してきた。小学校の時には漢字を覚えるのに何回も書いて覚えた。結局のところ記憶の定着、身に着くということはそういった泥臭いことの継続の上で成り立っているのではないか。一時期に流行った寝ながら聴くだけといった睡眠学習といったものも意識が特にむいていなかったため本当に身についていたといえなく、今ではほとんど聞いたことがない。
最後に本を読まなくても解説してくれる動画は本当に便利だ。しかし自分でしっかり読んだ本はそれよりも印象に残るはずだ。一冊を全て読むのは時間的に効率が悪いような気がする。ならば要約をきいて興味をもったものにしぼり自分でしっかり読んでみる。そして読んだ後には他の人があげたものを見たり聞いたりして自分の考え方との相違や大切な要点の再確認に使えば今の便利な環境を本当に活かした勉強の仕方といえるのではないだろうか。
コメント