第249回 さりげない気配り

いつも休日に過ごしているカフェでのできごと。そこはコーヒーがお代わり自由であるため、飲んでいるコップが空になると店員さんが「おかわりどうですか」と定期的につぎ足しに来てくれるお店である。自分もそこでたいてい3~4杯くらいはいつもおかわりを楽しんでいる。

今日もいつも通りそこでコーヒーを注文して備え付けの新聞を読みながらくつろいでいた。しばらくして飲み終わった後、空になったコップにコーヒーをつぎ足しに来てくれる店員さんがいた。

そこでびっくりしたのは、いつもは十分にコーヒーをついでくれるのに、なんと入れてくれたのはいつもの半分の量であった。

つまり、わざと少なめに入れてできるだけ熱々の温度のコーヒーを楽しんでもらいたいという意図であったと思う。またおかわりすることを見越していたのかどうかは分からないが、店員さんからすればまた継ぎ足しに来なければならない手間がかかるのにさりげなく少ない量にしてくれたことには驚きであった。

それ以外に少なからず驚いたのは以下の理由があるからである。いつもは最初の1~2杯は温かい温度でコーヒーを楽しめるが、お代わりの回数が増すにしたがって飲むスピードもゆっくりになってしまいコーヒーの温度も下がってしまう。後半は冷めてぬるくなったコーヒーを味わうことになるわけであるがいつもそのことには自分もしょうがないかとあきらめていたのである。そのため半分の量だけ入れるというのはそのことを解消してくれるコーヒーのつぎ方だったからである。

そこで思い出したのは、豊臣秀吉にお茶をだした石田光成の話である。知っている方もおられると思うが、確か秀吉が鷹狩をしていた時だったと思う。のどが渇いている秀吉に三成はお茶をだした。その出し方が秀吉の心をとらえて引き立てられたという逸話である。

のどの乾いている秀吉に対して、最初はぬるくて薄めのお茶をたっぷりと。二杯目は少し熱くて少し濃いめのものを。最後に熱くて量の少ないお茶を出したというのである。

これは飲むものの状況に応じた対応である。最初はのどの渇きを潤すお茶をだし、ある程度の水分を摂った後の最後にだすお茶はお茶そのものの味を堪能できるようにといった心配りを感じるのである。その昔、秀吉が織田信長のぞうりを自らの懐にいれて温めていた逸話のように、その時の相手の置かれた状況を慮る配慮を感じさせられた。

ふとつがれたコーヒーをみてそのようなことが頭に浮かんだので、今日のブログ記事に書いてみたわけである。昔の偉人の話をだしておおげさだったかとは思うが、人の心をつかむ行為はいつの時代もかわらないのだと感じさせられた出来事であった。

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